葡萄園、果樹園、荒れ地、そして山頂の村がすさまじい勢いで飛び去っていきます。列車の窓から見たこれらの風景は視界に飛び込んでは飛び出ていき、ほんの一瞬しか見えません。そうした印象を摂取したと思うやいなや、私はもうそれらを放棄して白昼夢におちいります。多くの印象が無駄に過ぎ去っていきます。私は自分の状態を長い間保てません。目は開いたままでも、それを通して見ている存在はまるで弱々しい赤ん坊のようにちらっと見ているだけで、その弱さゆえにすぐにまどろみに落ちてしまいます。これが私の状態なのです。ただ、イタリア、トスカナ地方の景観という新鮮な印象をとりこむ代わりに、意味のない連想が浮かぶにまかせてしまったおかげで、その事実がはっきりしただけのことです。

こうして〈自分の人生から消えたり、現れたり〉しながら、私は列車を降り、ホテルに手荷物を運び、チェックインし、シャワーを浴びてさっぱりしてから、階下で待つ人々に会います。消えたり、現れたりしながら、私は絵のように美しいフィレンツェ風の路地、バー、商店、人々、ペット、鳩を通りすぎていきます。消えたり、現れたりしながら、私は泉や円柱、彫像、タイルを大いに楽しんだり、あるいは愚かにもそうした印象を放棄して白昼夢におちいります。消えたり、現れたりしながら、私はメディチ・リッカルディ宮に着きます。

中庭に入ると市街の喧騒はかなりおさまります。階段をのぼって礼拝堂に足を踏み入れます。その壁には贈り物を手にした東方の三博士が描かれています。旅路の果てに、三人の博士らは聖母とその子に出会いました。「われらは東の三人の博士、礼代たずさえ幾山川…(聖公会古今聖歌36番)」と、頭のなかで執拗に連想の声が続きます。たしかに三人の博士と私はどちらも遠路はるばる旅をしてやってきました。ただ、三人の博士は駱駝に乗ってきましたが、私は列車に揺られてきました。博士たちは贈り物をたずさえてきましたが、私は手ぶらです。また、博士たちは太古の旅の危険をくぐりぬけ、厳しい冬の寒さにさらされつつ贈り物をもってきました。彼らは努力や寛大さを惜しみませんでした。星に結びついた人は、誰もが骨折りと気前のよさを惜しみません。

adoration-in-the-forest-detail-of-jesus-400px私は壁画に近寄って、人物ひとりひとりを表現したその完璧な芸術性を確かめます。私の注意を特にひいたのは老いた博士でした。その老齢のため、おそらく彼はこの旅から決して無事に戻れなかったことでしょう。旅の目的地をそれほどまでに価値あるものと見なしたので、彼はそのため自分の命を捨てる覚悟なのです。彼は背中ごしに私をじっと見つめ、私に内省をうながします。「さあ、これであなたはすべてのことに労苦が必要だということが分かったかな?」彼はそう言っているようでした。「それとも物事が自然に起こってくれるなどと、まだ信じているのかな?」

今や、私の意識は消えることなく、よりはっきりと現れるようになりました。私の視線は老いた博士の反対側にいる幼子イエスに向かいました。イエスもまた私を神秘的な眼ざしで見つめていました。「それは見方によるよ。」イエスは、老いた博士にいたずらっぽく答えながら、こう言っているようでした。「彼の観点から見れば努力だけど、ぼくには贈り物に思えるんだ…」


ちょっと間をとって、自分の周囲を見つめてください。自分の目を〈通して〉見てください。まるで弱々しい赤ん坊のように垣間見ている意識を体験してください。この状態を持続させることがいかに難しく、またどれほどすぐにその赤ん坊がまどろみに落ちてしまうか、自分で確かめてください。この教えは、インテリジェントな努力によってこの状態を持続させる方法を教えています。贈り物と同じように、努力から人間味を取り除くことはできません。親友にぴったりの贈り物を選ぶのと同じように、私たちはある瞬間にぴったりの努力を選ぶのです。

今、あなたが意識に贈るギフトとは何でしょうか?

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